『態度と呼応のためのプラクティス』は、若手・中堅音楽家が異なる専門性を持つ他者との共同制作に取り組む企画シリーズです。両者が、これまで培ってきた経験や技術を固有の「態度」として持ち寄り、互いに向き合い「呼応」しあうことによって、領域を超えた新たな表現の生成を目指します。
シリーズ第3回では、作曲家の松本真結子を紹介します。現代的手法に基づいた室内楽・オーケストラ作品だけでなく、地域・土地に根差している文化や風土に着目した音楽作品、ダンサーとの共同制作による作品など、自然や他者との関係に基づいた作品も手掛ける作曲家です。
松本と共同で制作を行うのは、アーティストの関川航平です。パフォーマンスやテキスト、インスタレーションや展示企画など幅広い手法を用いて、時間や認識そのものについて考察し直すような作品を発表しています。
「ヴォカリーズ・レッスン」では、ごく私的なエピソードを起点として“歌う”という⾏為を捉えなおし、その行為に至るまでの過程や動機、あるいは隔たりについて考え、そこに内包される⾔語/⾮⾔語的な可能性と、歌と⽇常との交点について試⾏します。
音について考える
松本真結子
猫について考える
関川航平
歌うことができる
溝淵加奈枝
会場
トーキョーコンサーツ・ラボ
チケット予約
Peatix:https://toconlab20221227.peatix.com/
チケット料金
一般:4,000円 *代金は当日受付にてお支払いください。
オンライン配信:2,000円 *19:00開演の回のみ
問い合わせ
東京コンサーツ(Tel: 03-3200-9755 *平日11:00-16:00)
主催
東京コンサーツ 〈文化庁「ARTS for the future! 2」補助対象事業〉
プロフィール
松本真結子|MATSUMOTO Mayuko
作曲家。自然現象、風土、身体・動物の動きから「生きもの」としての音の解釈を試みる。室内楽・オーケストラ等の音楽作品にとどまらず、そのスタイルを生かした、映像・絵本・ダンス等との共同制作による作曲・パフォーマンスに取り組む。近年は、瀬戸内の女木島の音を模した《in front of waves》(2022)、地元長野県の太神楽を引用した《Kagura Paraphrase》(2020)等の地域性・場所性と音響空間の関係を起点とした作品を発表。自然物を用いたワークショップ「Potluck Sound in 女木島」を企画。第35回現音作曲新人賞に入選・聴衆賞《Wandering Memory》(2019)、第88回日本音楽コンクール作曲部門第1位《風の形象》(2019)。日本大学大学院芸術学研究科音楽芸術専攻を修了。日本大学研究員。https://mayukomatsumoto.com/
関川航平|SEKIGAWA Kohei
1990年生まれ。パフォーマンスやテキスト、インスタレーションなど様々なアプローチを通じて、意味の伝達について考察している。近年の主な個展・グループ展に、「至るところで 心を集めよ 立っていよ」(Yutaka Kikutake Gallery、2022)、「あざみ野コンテンポラリーvol.11 関川航平 今日」(横浜市民ギャラリーあざみ野、2020)、「THEY DO NOT UNDERSTAND EACH OTHER」(大館美術館、2020)、「開館40周年記念展 トラベラー:まだ見ぬ地を踏むために」(国立国際美術館、2019)など。 https://www.sekigawa-kohei.com/
溝淵加奈枝|MIZOBUCHI Kanae
ソプラノ。香川県高松市出身。ベルリン在住。国立音楽大学卒業後、ストラスブール地方音楽院修了、シュトゥットガルト音楽・演劇大学現代音楽科を卒業。現在は声楽アンサンブルのSchola Heidelbergに参加。これまでの活動歴に、ロワイヨモン財団「新しい声」講習会(奨学生として、フランス)、Medici Archive Project(イタリア)、Snape Maltings(ブリテン・ピアーズ財団、イギリス)への参加など。http://kanae.uunyan.com/
フライヤーデザイン:関川航平
音響:野崎 爽、櫻内憧海
映像撮影:後藤 天、今堀拓也
企画制作:西村聡美(東京コンサーツ)
製作:東京コンサーツ
*本公演は新型コロナウイルス感染予防、拡散防止への対応策を徹底した上で実施いたします。
公演当日に配布したパンフレットのデータ、河野聡子と堀内彩虹の両名による公演レビューを掲載します。(2023.2.28更新)
>>パンフレットPDF
作品のアーカイブを公開しました(2023.6.1更新)
>>アーカイブPDF
猫は死んだのかそうではないのか、そもそも猫ではなかったのか
河野聡子
きっと猫の話をしているのだと思った。
私は駅から歩いてきて、トーキョーコンサーツ・ラボの白い壁の前に座っていた。「2022年12月27日15:00・・・(略)・・・駅から歩いてきて、座っている、見ている・・・」客席に用意されていた紙に書かれている通りだった。その紙には「A4のコピー用紙には、この部屋の図面が描かれている」とも小さな文字で記されていて、私は上演空間をあらわす長方形の二辺に沿って並ぶ、灰色の丸印の位置に座っていた。私は紙と目の前の空間を照応させた。上演空間の長い辺の両端に譜面台が置かれていた。向かい合うようにして、だが手元の紙には「譜面台」とは書かれていない。そのかわり、それぞれの譜面台の位置に「この声」「聞こえる」と書かれている。空間が薄暗くなる。
ひとつの譜面台の前に長身の男性が立ち、開演前の注意事項を話しはじめた、そう私は思った、しばらくのあいだは。男性が語っていたのはたしかに開演前の注意事項だったはず、しかしやがておかしなことになった。眠ったと気づかないうちに夢を見ているように、私は「開演前の注意」という言葉が上演されるのをみていた。やがてもうひとり人物があらわれる。男性に比較して、小柄な女性。声が聞こえる。声は、言葉ではない。言葉に、声が応える。nnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnnn, aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……薄暗い空間に毛布があらわれる。茶色の、もこもことしたあたたかそうな毛布だ。
私は手元の紙と目の前の空間を照応させた。紙にはこう書かれていた。上から順に「あたたか(そうな)毛布」「この姿」「見える」「何に」「踊れるはずさ」「口の中で、毛布が動くと」だから私は自然にその先をつなげる。
――この姿、何に見える?
どのくらいの時間が経過したあと猫について考えはじめたのかは覚えていない。最初のうち、私はもこもこと動く毛布をみつめながら、こたつのことを考えていた。もこもこと動く毛布の下には踊る人あるいは歌う人がいて、上演空間の長方形のなかであたたかそうにもこもこしながら動き、山下達郎の『FUNKY FLUSHI’N』が流れ「Step 踏んで 踊れるはずさ」と歌う声が響いた。私の手元の紙には長方形のこたつ台にセットした楕円形のこたつ布団のようにみえる図が描かれていた。紙のいちばん下には「けど、おもて寒いよね」と書いてある(吾妻光良『おもて寒いよね (Baby, It’s Cold Outside)/with 服部恭子)』)。こたつ布団の外周にはこう書いてあった。「・・・駅から歩いてきて、座っている、見ている・・・」。
そう、今日のような冬の日、クリスマスを過ぎた師走の、仕事納めの忙しさと静寂を同時に感じているような日に、駅から歩いてきて、こたつに座るのだ。すごくほっとするだろう。こたつ布団はあたたかく、足を入れるともこもこしている。ふわふわ、もこもこしているものといえば? もちろんケモノだ。もっといえば猫だ。猫はこたつの中にいるものだから。
――この姿、何に見える?
きっと声のせいだった。私の目の前には踊る人(もこもこした毛布をかぶったり、かぶっていなかったりしている)と声を放つ人がいた。一度猫を思い浮かべると、声はどう考えても猫の声としか思えなかった。猫は人と話すのだ。私は猫を飼っていないが、猫を飼っている友人はみんなそう語る。猫と話せると確信をもって断言する。
でも実際のところ、その声は猫の鳴声にはまったく似ていなかった。声は歌だった。発せられただけで、状況に応じて必然的に意味を持つ「言葉」ではない、声そのものによる歌。でも私の意識の中で、声はとっくに猫の声、猫の言葉になっていた。手元の紙に書かれているように「エアコンで暖められた」この空間は快適で、私はぼうっとしはじめていたのだ。
いつのまにかこたつは巨大な猫になり、上演空間をうろうろしていた。猫は家じゅうをうろうろするものだ。そして気に入った場所に留まって、影のように動かなくなる。そうぼんやり考えはじめたとき、男性の言葉に不穏な気配が混ざりはじめた。ぼうっとしている私の意識に、クーラーボックス、保冷剤、という語が響いた。男性が語る断片的な言葉をつなぎあわせて、私のなかでイメージが形づくられる。もこもこしたあたたかそうな毛布が動きを止める。
――この姿、何に見える? 保冷剤を詰めたクーラーボックスに何を入れる?
松本真結子(作曲家)×関川航平(アーティスト)「ヴォカリーズ・レッスン」は、発話・日常と歌うことの境界を往来する試みである。出演するのはアーティストの関川と歌手の溝淵加奈枝で、松本の曲はふたりの言葉と声の往来の背後に立ち現れる。会場で配られた紙は上演空間の設計図であり(「A4のコピー用紙にはこの部屋の図面が描かれている」)同時に公演の図形楽譜でもある。終わった後で紙を見返すと、たしかにこの楽譜にあるように上演されたように思える。異物のように挿入された楽曲(山下達郎と吾妻光良)の詞も、たしかにこの楽譜に含まれている。
でもこの紙も、それにこの上演も、実際は詩のようなものだ。設計図と詩はまったく異なるものだが、それは詩が設計図を含むのに、設計図は詩ではあってはならないという意味においてである。紙に書かれた記号がパフォーマンスとなって空間に立ち上がり、言葉と言葉にならない声と、もこもこしたあたたかそうな毛布と、毛布の内と外で繰り広げられる踊りが結びついて、私の前で詩の情景を形づくる。
むかし住んでいた土地で、隣人の猫が私の目の前で車にはねられたことがあった。私はエアコンで暖められた部屋の中で目の前の猫をみつめながら、そのことを思い出している。実際に私が見ているのは猫ではなくもこもことしたあたたかそうな毛布なのだが、この猫はまだ生きているのか、それとも死んでしまったのではないかと考えつづけている。空間に響く音はもう猫の声には聞こえない。演者が語る言葉はけっして核心にふれないが、上演空間がつくる層のなかに見いだされた詩は、自分にしかわからない私的な出来事と重なり合って、言葉と声と音のあいだで猫(あるいは毛布)の運命を宙ぶらりんにする。猫は死んだのかそうではないのか、そもそも猫ではなかったのか。
上演は吾妻光良の詞「けど、おもて寒いよね」に送られるように終わり、私は夢から覚めたような気分だった。明るい光の中で見た毛布はあいかわらずもこもこしていたが、どこをみても猫のようではなく、ただのあたたかそうな毛布だった。
感覚の膜にひっかかる澱としての声
堀内彩虹
公演開始前に聴衆に配られたたった1枚の紙は、その後現れる音と行為と空間の関係性を可視化した見取り図を示していた。説明文は付されていない。それは、作品そのものをあらわす図形楽譜のようでもあり、聴者自身に何を見聞きすべきか示唆するガイダンスのようでもある。聴者はその見取り図を手に、自分が音響空間のどこに位置し、耳と身体を何に/どのようにさしむけるかを把握し、これから目の前で行われるできごとに参与するための身体を準備するよう促される。
われわれのほとんどは発声経験をもっており、音声の背後にそれを生成する身体があることを身体的に熟知している。声そのものは不可視である。にもかかわらず、声がある人自身を代理[representation]するものであるかのように、人は声を発する身体とその生の存在を確認することを欲望し、声を生む身体を音響空間の中心に定位する。音声がその物質的音源から離れてもなお音とは呼ばれず、声のままであることは、われわれが、声を「誰かの」ものと認め、その誰かと〈わたし〉との関係性において聴きとりたいことを示している。
演者のひとりである関川航平が白い壁の前に立ち、聴衆に向かって「開演前のアナウンス」を話し始めた。よく知るアナウンスだと思っていると、そのアナウンスは何度も繰り返されるうちに次第に変容し、その意味内容を解体され、音の淵へ落ちてゆく。このとき、この後のできごとについて二つの予期が起こっていた。まず、白い壁に浮かびあがる演者の影は、演者の身体に依拠しつつも演者の身体から切り離されたものの存在を示唆する。つぎに、舞台空間に結界を設定するはずの「開演前アナウンス」が解体されることは、舞台の日常/非日常の境界を一旦抹し、声と言語と身体に通底する日常性を舞台にもちこむことを可能にする。
もう一人の演者である歌手の溝淵加奈枝が現れ、二人の演者は距離をとって向かい合い、発声で応答し合う。話し声と歌う声の呼応。それは模倣し合っているようでいて、声の高さ、質、モードといったあらゆる点においてズレている。〈ズレている〉のを感覚するのは他でもない、二人の演者の身体のあいだにおかれた聴者の身体である。二人の声の不協和を観察するうち、話す身体にも歌う身体にも重なりきらない聴者の身体は浮遊し、やがて、発声する〈誰か〉と〈わたし〉のあいだのノイズが〈きこえ〉始める。
声が与える身体のノイズは、二人の演者の異なる声に聴者の身体で呼応することを要求する。話す声と歌う声の交錯によって曖昧にされた「歌うこと」の境界を彷徨ったのち、聴者の身体は二人の声の残された共有可能性としての音素へと収斂されてゆく。どこが始まりでどこが終わりなのかわからない、断続的な発声が続く。内容が解体され、言葉が意味を形成しないほどに文節化されたあとに澱(おり)として残る声、そしてその唯一の形象性としての音素を生成する身体を、聴者は否応なしに発見することになる。
音を発する身体というできごとにおいて言語と音楽に代わる身体上の意味生成性を見いだしたようにみえる聴衆をふたたび錯乱に巻き込んでいくのは、時おり挿し挟まれるピアノの音響である。「発」「音」する身体に日常的身体を交叉させ、目の前のできごととの接点を見いだした聴者に対し、器楽の音響は楽器的共鳴を想起せよと言わんばかりに音楽的文脈へと聴者を引きずりこむ。音響的共鳴と身体的「(不)共鳴」とのあいだで〈わたし〉の身体は攪拌される。
作曲家の松本真結子が突然持って現れた茶色い毛並みの大きな毛布に虚をつかれる。松本はその毛布を溝淵に頭から被せ、溝淵は毛布を被ったままで歌う。演者の顔が隠され、顔のない身体が現れると、その声と身体は演者とのつながりを保ちつつ、完全に〈わたし〉ではないが〈わたし〉であるようなものとして立ち現れる。発声する身体の不可視性にもかかわらず、毛布は〈間-身体〉として演者と聴者のあいだに運動するひとつの身体を現前させる。
つづいて関川の身体が毛布に覆われる。
声を生成する身体は不可視だが/ゆえに聴者は音響的現れとしての声からそれを生みだす物質としての身体を想像する。イマジネーションの身体が演者の声をことさらに強調し、毛布に覆われた部分なき身体を声が文節化する。言語的/音楽的文節に代えて、身体的文節を想起させる声。見えないがゆえに身体の細部が——————呼吸が、口が、舌が、肺のふくらみが、筋肉の運動が、喉の抵抗が——————物理的距離の隔たりを超えて、のりうつるような仕方で聴者の身体に映しだされる。聴者の身体はもはや目の前の他者の身体から無関係ではいられない。毛布は、演者と聴者の境界も自他の境界も覆いかくし、イマジネーションの身体に〈わたし〉の器官的身体を重ねることを可能にする。毛布という皮膚に包まれた名もなき声と身体は、聴者の声と身体を代理する。
声なく、演者が動く。それに反応するように、聴衆の身体ももぞもぞと動く。毛布に隠され、演者の身体を見ることができない聴衆にとって、演者の声と身体の音の到来は予測不可能性に満ちている。聴者の耳は常に声と音に曝露され、聴者の防御なき身体は声と音を介して演者の身体の運動と反応に巻き込まれてゆく。苦しい。毛布のなかで力づよく呼吸するのは〈わたし〉なのか、毛布の重みに抗って運動するのは〈わたし〉なのか。言語的意味からも音楽的意味からも離れ、身体的意味のみが演者と聴者のあいだの意味を生成するとき、聴者の身体がもつ日常性は非日常的行為としてのパフォーマンスが包含する〈日常〉に絡めとられてゆく。
演者の「ハー」という息もれ声を聴者は〈ため息〉をめぐる身体運動として自分の身体上に定位する。そう、〈疲れた〉のだ。演者の身体にあらわれる〈労働〉の結果が——————額の汗が、上下する肩が、荒い呼吸が——————、感覚の膜として自己の身体を差し出し、他者の声と行為をそこに透過させることになった〈わたし〉の身体のありようを映しだしている。毛布をかぶって横たわる演者。演者の息もれ声と荒い息づかいに、聴者の身体的〈疲労〉の感覚は今日もっとも「労働」したであろう発声器官へと集約され、身体の「部分」であるはずの発声器官がやがて身体全体をのみこんでゆく。演者を覆う毛布が、ふくらんだりしぼんだりを繰り返す。聴者は毛布に自らの肺の膨張と縮小を重ねながら、身体の音を、声にならない〈声〉を、音響と非音響のあわいを〈きく〉。
ネコの鳴き声が聞こえる。演者が生みだすネコの鳴き声のような音声の多声性と人ではないものの生の存在の気配は、演者と聴者の身体が交叉する淵に落ち込んでいた聴衆を多様な生の空間へと引き戻す。最後に、演者は毛布を床におき、その皺を丁寧に伸ばしてゆく。毛布をなでる演者の手が、〈わたし〉の感覚の膜に触れる。演者たちの声によってくしゃくしゃにされた〈わたし〉の襞は、なでられ、のばされ、整えられ、ふたたび何ものにも「共鳴」しうる膜として、非日常としての舞台空間のただなかへと置きなおされる。
シリーズ第1回(2021)>>「ごろつく息」坂本光太(チューバ奏者)× 和田ながら(演出家)
シリーズ第2回(2022)>>「エコーの極点」小宮知久(作曲家)× 木下知威(歴史学者)